ご挨拶

静岡県伊東市に在住する田村喜照と申します。

私はこれで手足が動くようになった!

img_greeting_01.jpg私は、平成8年12月17日午後9時頃に突然、脳溢血で倒れ、救急車で近くのA脳神経外科医院にかつぎこまれました。意識が回復したのは、3日後のことでした。左半身が麻痺し、左手・左足がまったく動かず、涎まで垂れ流す有り様でした。わが身の不幸、さらには世の中を呪いました。自らの命を絶つことまでも考えました。そんな時、私の想いを見透かすように妻が言ったのです。「お父さん、ここから飛び降りても死ねないよ。せいぜい手足の骨が折れるくらいだわよ。」と。そして、もう一言、「いいじゃない。今までの様には仕事できなくても。手足が動かなくてもいいじゃない。わたしが左手・左足になってあげるよ。だから、生きてよ。」と。私は、何も言えませんでした。

そんな寝たきりの状態の平成8年大晦日の午後1時頃。忘れもしません。私の涎をティッシュで拭ってくれた人がいました。私の生涯の大恩人(千葉県津田沼市の某大手建設会社のS社長)です。そして、こう言ってくれたのです。「田村さん、こんな病気が何だ。早く良くなって、もう一度僕達とゴルフをやろうよ。頑張りなよ。」うちひしがれた私にとって、まさに天の声でした。

img_greeting_02.jpg明けて平成9年1月下旬、中伊豆にあるリハビリセンターに転院しました。私と妻との、病気との壮絶な戦いの始まりでした。センターには、入院患者が800人程いて、そのうち250人程が脳疾患者、残りの人たちはスポーツや交通事故で怪我をした部分的なリハビリを必要とする患者でした。入院してみて、私は唖然としました。確かにいろいろなリハビリ機器が揃っていますが、残念なことに脳疾患者用は何ひとつありません。ただ、週3回(1回が30分弱)の腕のマッサージと院内の歩行訓練、ラジオ体操まがいの訓練をするだけの毎日でした。風呂には1人では入れませんので、腰紐を付けた上、妻が一緒に入ってくれました。・・・・・これが、リハビリ病院の実態です。私の腕は、雨が降れば痛み、寒ければ痛み、動かすたびに泣き叫びたいほどの痛みが生じます。しかし、泣いてばかりでは治りません。私は、妻に麻雀パイ、クルミの実、ゴルフボール、テニスボールなどを持って来させ、握れるものはすべて握ってみました。自分でリハビリを始めたのです。

img_greeting_05.jpg当時のリハビリ病院は、リハビリとは名ばかりで、実際はトレーニングセンターではないかと疑うほどの、一時的な、しかも健常者向け(?)と思われるような部位的な訓練をさせるところと言っても過言ではありませんでした。私は病院側のメニューとは別に、手を動かすことが最も重要なことだと思い、いろいろと自分なりに実践を重ねました。退院後も、手・腕を動かすことから、握る・掴む・引っ張る・上げるという動作を繰り返す日々を送りました。すぐに効果は現れ、腕の痛みも少なくなり、言語障害も良くなってきて、足も動くようになりました。腕が動くようになれば、全体が治る。私は確信しました。妻にも「良くなってるよ。」と言われ、自信を持ちました。そして不自由な手で自分なりに考えたリハビリ機を作りはじめました。

img_greeting_03.jpg最初は、ダンボール板を切り刻み重ね合わせて枠を作り、考案した器具類を吊るし、いかにリハビリの痛みを和らげながら訓練できるかを考慮し、素材もいろいろ試し、現製品の原型を完成させました。私は、そのダンボールのリハビリ機で日増しに良くなり、発病から10ヶ月後には、ゴルフにも挑戦できるようになりました。ボールが飛ばずにクラブが飛んだりして、散々なゴルフでしたが、18ホールを回り、本当に生きている喜びを感じました。

この病気は、孤独です。自分との戦いです。脳疾患者の気持ちは、健常者には完全には理解できないものと思います。家族や介護者の援助は必要ですが、脳疾患者は、自分に負い目があり、本当はできるなら家族や介護者をわずらわせたくないのです。しかし、リハビリは、自分ひとりではなかなかできません。そのジレンマに悩んでいます。

7年間、いろいろと試行錯誤を重ね、これなら「自分の城」で「自分で自分を治す」ことができると確信できる物を完成させ、特許製品としました。自宅で、テレビを見ながらでも、音楽を聴きながらでも、リハビリができ、ご家族や介護の方も安心していられる、そんなリハビリ機だと自負しております。
ただし、どのような優れた機械や、名薬でも、さらにはどんな立派な名医に診てもらおうが、あなた自身が、治そうという気持ちがなければ、治るものではありません。少しでも歩けるようになったら、何かにつかまってでも、杖をついてでも、少しずつでもいいですから、頑張って歩くことが大切なことです。

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